写真から言葉へ : ロラン・バルトとマン・レイを巡って
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「矛盾している」
なにがどういう矛盾?
「永遠に到達しない」
「対象そのものを表象して対象に達する」写真で「対象に決して到達することなしに対象を表象する」⽂字を撮る行為の奇妙さは確かにあるけど、別に写真は記号そのままとしての対象を撮っていて、そこから普通の文字として作用が現れるじゃん
「問題」
実際なにが問題?写真で文字を撮るということの当為?
「イメージ化された⾔語、⾔語化されたイメージという写真と⾔語の間にある循環」
当たり前のように言ってるけどそうなのか?どういう循環?写真はイメージ化された言語なのか?
「写真を⾒るものとして」
これ物か者かどっちだ。者っぽい?
「バルトは語り得ぬものを語るのではなく、反対に語ることによって語り得ぬものとして写真を守ろうとし」
そもそも語り得ぬものではなく、語ることで語り得ぬものにするってことかな
結局なんで「マン・レイは写真を⾔葉へと向かわせた」という主張になったんだ?
写真と対象との間に余⽩をもうけた・距離をとったのはわかるけど、それはただの言葉との共通点であって「言葉へと向かわせた」理由になってなくね
次の段落のバルトの方はわかる。
「バルトが語るはずもなかった⺟のことを、つまり『明るい部屋』を書いたのもまた、「温室の写真」を⾒たから」、これはまあそうだよね
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写真から⾔葉へ
──ロラン・バルトとマン・レイを巡って──
⽊⽔ 千⾥
序 対象、写真、⾔葉
写真は⽂字や絵画といった他の表象とは違い、実在する対象を必要とする。写真の発明は、光によって、つまり⼈間の⼿を介することなく、実在する対象に忠実な像を得ることを可能にしたのである。しかし、それ故しばしば批判されるように、写真には対象が張り付いてしまっており、何かを意味することができない。写真はあまりにも対象に同化してしまうのである。だから、写真は時にはタイトルをつけられ、あるいは説明⽂を要求され、⾔葉と関係を結び、一定⽅向の⽂脈を与えられ、また時には対象が写りすぎることを懸念され、写真はその対象にあらかじめ伝えるべき意味を担わされる。写真は、多くの場合、対象の表象であると同時に⾔葉の表象でもあるといえるのではないのだろうか。写真は対象と⾔葉の間で揺れ、それぞれの類似物に扮し、未だに⾃⾝の道を⾒つけられずにいる。本稿では、『明るい部屋』におけるロラン・バルトと、レイヨグラフの作品におけるマン・レイの両者をそれぞれ参照し、写真と対象、写真と⾔葉の関係を探り、改めてこの三項の関係について、さらには写真について考察したい。
1 バルトにおける写真と⾔葉
『明るい部屋』 は⼆部構成になっており、前半ではバルトはストゥディウム、 プンクトゥムという⽤語を⽤い、論を進めている。バルトによれば「ストゥディウムのうちには、それが、⽂化的なものであるという共⽰的意味」が含まれており、それは「欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場」であると⾔い、それに対してプンクトゥムとは「ストゥディウムを破壊しにやって来るもの」であり、「刺し傷、⼩さな⽳、⼩さな斑点、⼩さな裂け⽬」であり、「要するに、ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうでない」と⾔う。そして、バルトはプンクトゥムの⼒を借り、ストゥディウムによって(つまりコード化によって)⾒えきってしまっている写真を、それ故読みきってしまうことができる写真を、どうにかして読み替えることを主張する(1)。「コードが、私よりも先にそのことをつげ、私に取って代わり、私が語るのを許さない」写真に、写真の外、写っていない「⾒えない場」を求める。バルトは「私」を突き刺す⼩さな一点だけを⾒つめ、「私」がコードより先に語ろうとする。写真を⾒ているものが写真を⾒ることによって、まるで、てこの原理のようにある一点を利⽤し、写真を一気に読み替えてしまうことを提案するのである。あらゆる項に置き換え可能な空⽩の場、空欄である「⾒えない場」を作り、最後の⼒を振り絞り写真を逃げ道へと誘導する。そして、バルトはプンクトゥムを捕らえ損ねないために、さらには⽬を閉じて写真を⾒ることさえも提案するのである。
プンクトゥムは、いかに直接的、いかに鋭利なものであっても、ある種の潜伏性をもつことができる(しかしいかなる検査にも決して反応しない)、ということを私はそのとき理解したのだった。結局のところ──あるいは、極限においては──写真をよく⾒るためには、写真から顔を上げてしまうか、または⽬を閉じてしまうほうがよいのだ。[…]絶対的な主観性は、ただ沈黙の状態、沈黙の努⼒によってしか到達されない(⽬を閉じることは、沈黙のなかで映像に語らせることである)(2)。
写真を前に⽬を閉じて何を⾒るのか。⽬を閉じて「絶対的な主観性」、⾃⼰を⾒るのである。確かに、プンクトゥムの潜在性を認めることは、⾃⼰を肯定するのと同時に、⾒ることの限界、プンクトゥムによる写真の読み替えの限界、語ることの限界を認めることになりうる。しかし、バルトがプンクトゥムによっ て写真の読み替えを⾏おうとするのは、単にストゥディムから逃れるため、つまり写真に詰め込まれたコード、写真家の意図に背くためではなく、むしろ⾃⼰に忠実になり、「⾔語活動を誤った⽅向に」導かないためだったのではないだろうか。⽬を閉じて写真を⾒、正しい⽅向に⾔語活動を導こうとするバルトは、写真に⾒ることの代わりに語ることを割り当てる。バルトは⾔葉と写真に共犯関係を結ばせるのである。その領分を計算して配分し、ただ一点を⾒て語り、そして究極的には⾒ないで語らせることによって、⾔葉と写真は互いに補う。⾔葉と写真の間には過不⾜ないバランスが保たれ、充⾜して共存する。しかし、バルトはそのような写真に関する努⼒を諦めてか、あるいはその⾏為が無益なことに気付いてか、直後に前⾔取り消しをする。
私は⾃分⾃⾝のなかにさらに深く降りていって、「写真」の明証を⾒出さなければならなかった。その明証とは、写真を眺める者ならば誰にでも⾒てとれるものであり、しかも彼の⽬から⾒て、写真を他のあらゆる映像から区別するものである。私はこれまで述べてきたことを取り消さなければならなかった(3)。
2 バルトにおける写真と対象
後半でバルトは⺟が亡くなった失意の中、⺟を求め写真を探す。しかし、⺟そのものを⾒つけられないバルトは差異のない、あるいは差異しかなく本質を⽋いた⺟の写真に埋もれ嘆く。
私は⺟を、本質によってではなく、差異によって再認・認識していたのである。かくして写真は私に⾟い作業を強いた。⺟の⾃⼰同一性の本質を⽬指して、私は部分的に正しい映像、ということはつまり、全体として誤っている映像に取り囲まれて、もがいていたのだ。[…]私は⺟の夢を⾒るが、夢で⺟を⾒るわけではないのだ。そして写真を⾒るときも、夢のなかと同じ努⼒、同じように際限のないシシュポスの作業が繰り返される。本質を⽬指してよじ登るのだが、それを⽬にすることもなく転落し、また最初からやりなおすのである(4)。
本質に未だ辿り着けないバルトは写真を対象の類似物として扱っている。⺟とそれを完全に写すことができた写真、対象とその表象という完璧な類似関係を信じ、求めるのである。これは一⾒妥当なことと思われる。写真は対象を表象するものであり、最もよく表象できている写真を探そうというのである。そして、とうとうバルトは一枚の写真、「温室の写真」を⾒つける(5)。ただし、そのとき、写真は対象の表象という役割とは違う側⾯を⾒せることになる。
かくして私は、⺟を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一⼈、灯⽕のもとで、⺟の写真を一枚一枚眺めながら、⺟とともに少しずつ時間を遡り、私が愛してきた⺟の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発⾒した。[…]《正しい映像などはない、ただの映像があるだけだ》、とゴダールは⾔った。しかし私の悲しみにとっては、正しい映像、正当でかつ正確な映像が必要だった。ただの映像にすぎないとしても、正しい映像が必要だった。私にとっては「温室の一枚」がそれだった(6)。
「温室の写真」に巡り会い、バルトはそこに⺟そのものを⾒つける。バルトは「温室の写真」によって⺟とよく似た⺟ではなく、⺟そのものを⾒つけるのである。しかし、「温室の写真」とはバルトが知ることのできない幼少期の⺟の写真なのであり、「まさしく⺟に似ていない、遠い昔の、失われた写真、私の知らない少⼥」の写真なのである。確かに、似ているということは、そもそも似ているが故に違うということを意味しているのだから、「温室の写真」で⺟に似ていない⺟に⺟そのものを⾒いだしたバルトにとって、写真とはもはや単なる対象の類似物ではないのであろう。いや、反対にバルトは「『写真』が類同的であることはいっこうに差し⽀えない」とさえ⾔う。⺟そのものを⾒つけたバルトにとって、写真の対象類似は全く問題にならないのである。そして、「温室の写真」を⾒つけ、対象と写真の間から類似関係を捨てたバルトは写真について奇妙なことを⾔う。
写真とは⽂字どおり指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。[…]私にとって重要なのは、撮影された⾁体が、つけ⾜しの光によってではなく、その本来の光線によって私に触れにやって来る、という確かな事実なのである。
(それゆえ、いかに⾊あせていようと、「温室の写真」は、私にとって、その⽇、少⼥だった⺟から、その髪から、肌から、⾐服から、まなざしから、発せられていた光線の宝庫なのである。)(7)
「温室の写真」を⾒つけたバルトにとって、写真とはもはや単なる対象の類似物ではない。写真と対象は類似関係ではなく、光によって結ばれているのである。写真を対象から発せられた光として捕らえており、光を対象からの、そして対象へと続く道として考えているのではないのだろうか(8)。光が実在する対象との接点を与えてくれるのである。バルトはこの「温室の写真」から写真の本質、あの有名な写真のノエマ、「それはかつてあった」を引き出す。バルトが写真を絵画の、あるいは遠近法の延⻑線としてではなく、その化学的側⾯から捕らえなければならないと⾔うのは、何よりも写真は光の定着であるというその化学的性質によって、写真に写る限りはそのシャッターが押された瞬間、レンズの前には確実に対象が存在したことを保証し、証明してくれるものとして写真を理解しているからなのである。写真は、その対象と関係を切り離すことができない。これこそが写真が他の表象と異なる点なのである。バルトが「『写真』とは一つの魔術であって、技術(芸術)ではない」と⾔うとき、写真は対象の表象ではなくなり、写真は光の旅となり、対象の使いとなり、対象へと導く。バルトは「温室の写真」によって対象に、つまり、写真を通じて⺟に出会ってしまった。そして、「温室の一枚」を前にバルトは⾔葉を⽋き、ただそれを凝視する。語ることができず、ただ写真を⾒つめるのである。
私はただ一⼈、写真と向かい合い、写真を眺めている。輪は閉ざされ、出⼝はない。私はただじっと⾝動きもせずに苦しむ。不⽑な、残酷な不能の状態。私は⾃分の悲しみを変換することができず、⾃分の視線をそらすことができない(9)。
バルトにとって写真とは対象と唯一接点を持つことができる⽅法であり、⾔語活動の出⼝、あるいは対象の⼊り⼝であり、語りうるものの限界なのである。⾔葉と写真の間で揺れていたバルトは写真と対象の間で揺れ、対象に⾝を任す。そのとき、⾔語活動は終焉を迎える。バルトは写真を凝視し、そして語らない。バルトが「写真は現実を搾り出しにした狂気の映像である」と⾔うのは、ただ写真だけが光によって対象への道をそっと開いてくれるからなのではないのだろうか。狂気とは、一枚の真実が写真のノエマ「それはかつてあった」という現実を導くというこの逆流の過程、真実が現実となり、表象が対象となるこの逆流の過程そのものなのである(10)。写真が狂気となるとき、写真は⾔葉への道を閉ざし、光の道となり対象へと案内する。写真は、⾔葉を失い、ただ写真を凝視する⼈だけ、その⼿を引き対象へと誘い込む。バルトは最後に読者に選択を促す。
狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。[…]「写真」が写して⾒せるものを完璧な錯覚として⽂化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる⼿に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは⾃分である(11)。
最後に投げかけられた、一種の賭にも似たこの⼤真⾯⽬な問いにはあらかじめバルトによって答えが⽤意されている。なぜなら、バルトは「温室の一枚」を発⾒してしまったのであり、⺟そのものを⾒つけてしまったのだから。すべてはそこから始まっているのである。バルトは狂気に魅了されている。たとえ、最後に気を取り戻し、あわてて冷静を装い、改めて読者に問うとしても、バルトにとって写真とは対象へ通じる唯一の道なのである。バルトは光の道を辿り、真っ直ぐ⺟に駆け寄る。
以上バルトの『明るい部屋』を通して写真を考察してきた。しかし、バルトが⾃⾝でも「私は職業的な写真家ではないし、またアマチュアでさえもない」と述べるように、『明るい部屋』は写真を撮る⽴場から書かれていない。バルトはあくまでも写真を⾒る者として、『明るい部屋』を書いているのである。また、バルトはこの「温室の写真」について「⽥舎の一写真家が⾏った偶然による」と述べ、そして、さらにその写真家について、「⾃分の定着した映像が真実であるということ──私にとって真実であるということ──を、ついに知るよしもなかった」とさえ述べている。一体写真家は写真について何ができるのだろうか。以下、マン・レイのレイヨグラフを通して、写真を撮る⽴場から改めて写真を考察したい。もっぱら写真を撮る⽴場にありながら、マン・レイはレイヨグラフという写真機を使わない写真、つまり感光性のみから成り⽴つ写真を撮り、そのレイヨグラフと⽂字とを共存させる作品を制作しているのである。では、マン・レイはレイヨグラフで何を撮り、何をしようとしたのか。マン・レイがレイヨグラフで試みたことを探ることによって、写真家が為し得ることから、写真が為し得るまた別の側⾯が⾒えてくるのではないのだろうか。
3 マン·レイにおけるレイヨグラフと対象
マン・レイはレイヨグラフという技法を偶然によって発⾒する(12) f1。しかし、たとえ始まりは偶然だとしても、マン・レイがそれを受け⼊れたことが重要なのである。マン・レイはレイヨグラフを発⾒した状況を述べている。
わたしが「レイヨグラフ」の⽅法、つまり写真機なしにつくられる写真の⽅法を偶然⾒付けたのは、これらの焼付をつくっている最中だった。最初に何枚かまとめて露光し、そのあとで一緒に現像することにしていたのだが、露光済みのものにまじってまだ露光させていない印画紙が一枚あったらしく、それを現像液の⽫に⼊れたのだった。何かの像が浮かびあがってくるのを数分待ったが甲斐なく、印画紙を無駄にしたと後悔しながら、液⽫のなかの⼩さなガラスの漏⽃や⽬盛付容器や温度計を、濡れた印画紙のうえに機械的に置いた。そして電気を点けた。すると眼前でひとつの像が形成されはじめた。それはまともな写真におけるような物体の単純なシルエットではまったくなくて、形が歪み、印画紙と多かれ少なかれ接触しているガラスのために光が屈折し、⿊い地(光が直接当たった部分)から浮き出しているものだった(13)。
レイヨグラフでは、印画紙の上に置かれた対象はまるで今まで秘密にしてい たもう一つの側⾯を⾒せるかのように、⾒たこともないものとして写しだされる。写真機を使わないレイヨグラフは遠近法という原理を取り払い、対象と写真の類似関係を解消させるのである。レイヨグラフを受け⼊れたマン・レイは写真を対象の類似物とは考えていない。そもそも、マン・レイが写真機を使わないレイヨグラフをそれでも写真と呼ぶのは、マン・レイもまた写真の本質を対象との類似性にあるのではなく、その感光性にあると考えていたからではないのだろうか。 写真を対象との類似性ではなく、光の定着という化学的側⾯から捕らえようとする点において、マン・レイとバルトは同じである。むしろ、写真機を捨て、光の感光性のみによって捕らえられたレイヨグラフは極限にし て根本的な写真とさえ⾔うことができるだろう(14)。
しかし、この感光性を本質とする⼆つの写真には違いがあるように思われる。というのも、「そこに存在した現実の対象から、放射物が発せられ」る、と語るバルトにとっての光は、あるいはマン・レイが「まともな写真」と呼ぶところの写真の光は、対象から反射する光であり、バルトに従うなら、対象からの放射物である。光を辿ればその先には対象があり、光は対象から発せられ、写真へと真っ直ぐ伸びる。そして、写真は感光性により、その対象からの光を定着させる。だから、バルトが「写真は存在証明」であると⾔うように、写真は実在する対象を証明するという⽐類ない関係を結ぶことができるのである。しかし、マン・レイはレイヨグラフについて、対談の中で、「光と化学薬品で描いた」と述べているのである(15)。写真はまさに感光性によりその対象を実在するもの として保証する。これこそが写真が他の表象と区別される点であり、バルトはそれによって⺟に達することができたのである。それに対し、絵画はたとえ実在する対象を描くとしても、描かれた絵はその対象を証明することはできない。しかし、それにも関わらず、マン・レイはレイヨグラフにおいて、絵画のように「描いた」という⾔葉を使う。レイヨグラフは感光性によって成り⽴っているにもかかわらず、「描いた」と⾔うのである。「描いた」と⾔うマン・レイの⾔葉を信じるのなら、マン・レイはレイヨグラフを字義通り絵画のようにその対象を証明するものではないと考えたのではないのだろうか。
しかし、マン・レイが「描いた」と⾔っても、レイヨグラフにおいても対象は確実に存在する。いくら遠近法が放棄され、対象との類似関係を失い、識別不可能で抽象的になったとしても、レイヨグラフでは光は闇となって沈むのだから、印画紙に何かが写る限りはその上に光を遮る対象が、つまり実在する対象が存在したことを付随的に証明するのである(16)。実在する対象を印画紙の上に必要とする限り、レイヨグラフで写真を撮ることは写真機を捨て、対象との類似を捨てることによって、実在する対象との関係そのものを放棄しようとすることを意味していない。むしろ「光で描いた」と⾔うように、マン・レイは対象との関係を保持し、印画紙に定着する光によって、つまり、バルトが実在する対象を証明した感光性によって、バルトとは反対に、対象を必然的に証明してしまう対象と表象の絶対の関係を放棄しようとしたのではないのだろうか。確かに感光性を本質としても、「まともな写真」とレイヨグラフにはその光に違いがあるように思われる。というのも、レイヨグラフにおいて光は対象から発せられない。反対に明々と降り注がれた光が対象を照らし出す。上⽅から降り注がれる光はその度合いに応じて対象を様々な光に引き替え、印画紙の上で対象を光に換算するのである。その感光性のみによって捕らえられたレイヨグラフは、写真機を捨てることによって実在する対象とは似ていない写真ではなく、実在する対象を光にした写真であり、それ故まさにマン・レイが「光で描いた」と⾔うように、実在する対象を証明するにはほど遠い、単なる光の定着物であり、単なる光の造形物なのである。対象は印画紙の上に存在するが、それに光が降り注がれることによって、始めてレイヨグラフが形成されるように、バルトは光によって「温室の写真」から⺟そのものを導きだしたが、レイヨグラフは光によってまさに実在する対象から表象を作り出す。マン・レイにとって印画紙の上にある実在する対象は重要ではない。なるほど、だからマン・レイは複製の時代において、それにもかかわらず、その原理により一枚しか制作することのできないレイヨグラフを撮ったのだろう。マン・レイはレイヨグラフの奥にある対象ではなく、レイヨグラフの表⾯に興味があり、そして、レイヨグラフそのものに⽬を向けさせるのである。
実在する対象へと向かう写真か、実在する対象から離れていく写真か。光を定着させるという同じ平⾯において、そこには⼆通りの光があり、それ故⼆通りの写真がある。レイヨグラフを偶然に発⾒し、それを受け⼊れたマン・レイは後者を選ぶ。バルトにとって写真は実在する対象へ唯一到達することができる⼿段だとしたが、マン・レイにとってレイヨグラフとは実在する対象から唯一逸脱することのできる⼿段だったのである。
結びにかえて
バルトは「温室の写真」を⾒て、そして⾔葉を失った。「温室の写真」を前に語ることができない。ただ凝視するのみ。バルトは対象を得ることと引き替えに⾔葉を失うことを選ぶ。一⽅、レイヨグラフは実在する対象から逸脱する。それでは、マン・レイは実在する対象から離れるためにレイヨグラフを撮ったのだろうか。いや、むしろマン・レイがレイヨグラフを撮ったのは、実在する対象から逸脱し、実在する対象と距離を取ることによって、対象へと到達したバルトとは反対に、写真を⾔葉へと向かわせるためだったといえるのではないのだろうか。つまりマン・レイはレイヨグラフによって写真を⾔葉に近づけようとしたのではないのだろうか。実際に、マン・レイはレイヨグラフと⽂字を関係づけた作品をいくつか制作しているのである。写真と⽂字がそれぞれの⽅法で関係するそれらの作品は我々を写真と⾔葉のある特異な関係へと連れ出す。さしあたって仮説でしかないことは承知の上で、2枚の作品を取りあげ、それらの作品の中に、写真から⾔葉へと向かう道を読み取り、それを辿ってみたい。
レイヨグラフを撮るマン・レイは1924年、レイヨグラフで⽂字を撮る(17) f2 。マン・レイの⾔うところに従うなら、レイヨグラフで⽂字を描いているのである。しかし、写真で⽂字を撮るという⾏為は一⾒⽭盾しているように思われる。というのも、写真とは対象そのものを表象し、それ故対象に達するのであるのに対し、⽂字とは対象に決して到達することなしに、対象を表象するのだから。写真で⽂字を撮るという⾏為は⽭盾している。⽂字を撮る写真は、写真であるにも関わらず、永遠に対象に到達することができない。しかし、レイヨグラフで⽂字を撮るのならむしろ問題はないように思われる。というのも、レイヨグラフは⽂字と同様、実在する対象から逸脱し、対象と重なり合うことはないのだから。レイヨグラフで⽂字を撮るという⾏為には⽭盾は⽣じない。反対に、レイヨグラフだからこそ、この写真の対象にしては珍しい⽂字を撮ることができたのであろう。レイヨグラフで⽂字を撮るマン・レイは、写真を対象から引き離すというよりは、写真を⽂字に近づけようとしたのではないのだろうか。つまり、このレイヨグラフで⽂字を撮る一枚から、レイヨグラフは⽂字になろうとした写真であると⾔うことができないだろうか。レイヨグラフは写真と対象との間に余⽩をもうけ、写真を⽂字にしようとするのである。この仮説はもう一枚のレイヨグラフと⽂字が関係する作品を⽤いると、さらに補⾜できるだろう。マン・レイは1970年、レイヨグラフで⽻根ペンを撮り、その上に⽂字が書かれた作品を制作している(18) f3。写真に⽂字を書いているのである。晩年、再びレイヨグラフと⽂字を関係させるとき、マン・レイはレイヨグラフで⽻根ペンを撮り、その上に⽂字を書く。この一枚の作品で、写真と⽂字は分離して共存しているのである。マン・レイはレイヨグラフに写真と⽂字とが共存する場を⾒いだしたのではないのだろうか。先に述べたように、この二枚の写真を考慮するなら、マン・レイがレイヨグラフを撮ったのは、写真を対象へと向かわせそれと一致するが故に、⾔葉を失うのではなく、写真が対象と永遠に一致することがないが故に、写真を⾔葉へと向かわせるためだったと⾔えはしないだろうか。一枚⽬の作品の撮られた⽂字は二重にぶれており、まるで拳銃に固定することを禁⽌されていているかのように⾒張られ、そのまわりに散乱している。また二枚⽬の作品では⽂字ではなく、⽂字を綴る⽻根ペンが撮られており、写真は様々な⽂字を⽣み出すための道具としてあるようである。しかし、まるで幾通りの可能性を秘めた⽂字になりうる写真から一つの⾔葉を選んだかのように、レイヨグラフの上の⽂字ははっきりと書かれている。それは、マン・レイがレイヨグラフを撮ることによって、写真を実在する対象に溺れさせることなく、なおかつ、イメージ化された⾔語、⾔語化されたイメージという写真と⾔語の間にある循環を越えた、写真から⾔葉へと伸びる一つの⽅向を模索し、写真が新たに⾔葉を⽣むことを望んだからだと仮定できはしないだろうか。レイヨグラフの上に書かれたそれぞれの⽂字に⾚、⻩、⻘、の鮮やかな⾊がついているように。
しかし、写真から⾔葉に向かうのは、バルトもまた同じではないのだろうか。バルトは「私は《何も⾔うことがない》と⾔うことについて語るという、この⽪⾁に頼る以外、どうすることのできないのだ」と⾔う。バルトは語ることの苦⾏を⼗分に理解している。だからこそ、「温室の写真」を⾒て、バルトは⺟に駆け寄り、語ることを放棄した。しかし、それでもやはり、バルトは『明るい部屋』を書いた。バルトが語るはずもなかった⺟のことを、つまり『明るい部屋』を書いたのもまた、「温室の写真」を⾒たからなのである。たとえ「温室の写真」を前に語ることができなくても、「温室の写真」によって語らされていること、『明るい部屋』は「温室の写真」から⽣まれた⾔葉だということもまたバルトは⼗分に理解していたであろう。「温室の写真」を⾒つけたバルトは『明るい部屋』を書くことで、写真を⾒るものとして、写真を対象に近づけ、語り得ぬものによって語らされることによって、写真から⾔葉へと向かう。バルトとマン・レイはそれぞれの⽅法で、対象、写真、⾔葉というこの三項において、写真から⾔葉へと向かう道を⾒付けたのではないのだろうか。写真が⾔葉への道となるように。写真が語る糧となるように。
写真から⾔葉へと向かう点において、バルトとマン・レイは一⾒すると同じ⽅向へと進んでいるようである。しかし、この両者はそれぞれ反対⽅向へと、いやそもそも反対⽅向から歩み出したのではないのだろうか。確かにバルトは語った。写真から⾔葉が⽣まれ、「温室の写真」から『明るい部屋』が⽣まれたように、写真は⾔葉になる。しかも、語られたことのない⾔葉に。ただし、語ることを決意したバルトは肝⼼の「温室の写真」を⾒せることはない。バルトは写真を⾒て語るが、⾒せずに語る。写真を⾔葉に触れさせることを拒む。バルトは語ることによって写真を⾒せることを免れるのである。バルトが語るのは、写真を⾒せないため、あるいは語ることによって写真の存在をほのめかすためだったと⾔えるのではないのだろうか。バルトの⾔葉は写真が不在なときだけ現れ、⾔葉は写真の⾝替わりとなる。一⽅、マン・レイは写真を⾔葉に捧げる。レイヨグラフで⽂字を撮るとき、そこでは⽂字が対象に、対象が⽂字に反転するのである。レイヨグラフを偶然に発⾒し、それを受け⼊れたマン・レイは、写真を撮る者として、写真を対象から離し、語り得ぬものを語り得るものにすることによって、写真から⾔葉へと向かう。写真から⾔葉への道を両者は違った⽅法で歩む。バルトは語り得ぬものを語るのではなく、反対に語ることによって語り得ぬものとして写真を守ろうとし、マン・レイは語り得るものとして語ることで写真を救おうとしたのではないのだろうか。
注
- (1)セルジュ・ティスロンはストゥディウムとプンクトゥムの関係についてプンクトゥムを、映像を⾒る一つの記号として捕らえ、両者は「映像によって運ばれるがまま」になることを受け⼊れないという点について同じであると述べている。「[…]その後バルトは、こうした[初期の記号学的な]研究が、写真を⾒る⼈それぞれが映像と結ぶ関係の特殊性を無視していることに気づき、「ストゥディム=研究」に背を向けるようになる。そうなると、研究することではなく、映像の[魅⼒に]捕らえられることが重要になってくる。しかし、魅⼒に捕らえられることもまた、バルトにとっては依然として「記号」を通じて、つまり、⾒る者を「突き刺す」ような可能性を秘めた「記号」を通じて⽣じてくることなのである。映像に眼差しを向けること、それは、たとえそれが「ストゥディム的=勤勉」な記号学における注意のあり⽅とは別種の注意のあり⽅を具えるものであるとしても、やはり依然として映像を「観察する」ことであることには変わりない。 」セルジュ・ティスロン『明るい部屋の謎』⻘⼭勝訳、⼈⽂書院、2001、p.181.
- (2)Roland Barthes, La chambre claire, cahiers du chinema gallimard seuil, 1980, p.88. なお⽇本語訳についてはロラン・バルト『明るい部屋』、花輪光訳、みすず書房、1999、を引⽤させて頂いた。
- (3)Ibid., p.96.
- (4)Ibid., pp.103-104.
- (5)「それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関⼼=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう」という理由により、バルトは「温室の写真」を『明るい部屋』に掲載していない。
- (6)La chambre claire, op.cit., pp.105-109.
- (7)Ibid., pp.126-128.
- (8)確かに写真のノエマ、「それはかつてあった」は同時に、それはもはやないという不在を⽰すことにもなるが、バルトは⾃⾝を突き刺した映像を思い浮かべ以下のように述べている。「それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの⾮現実性を⾶び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ⼊っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。Ibid., p.179.」
- (9)La chambre claire, op.cit., pp.140-141.
- (10)バルトは写真の本質であるノエマを、それ故写真である限りは全ての写真に共通することになるノエマを特異の一枚、愛する⺟の写真から導きだしたということ、またバルトが狂気に関して「『写真』と『狂気』と、それに名前がよくわからないある何ものかとの間には、ある種のつながり(結びつき)がある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。[…]しかしながら、そうばかりとも⾔い切れなかった。その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。『写真』のうちに呼び起こされる愛のうちには『憐れみ』という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた」と述べていることにも注⽬したい。Ibid., pp.178-9
- (11)Ibid., pp.183-184.
- (12)マン・レイがレイヨグラフを発⾒したといっても、この写真機を使わない写真は様々な⼈によって同時に、あるいはその前にすでに発⾒されている。フォックス・タルボット(1800-77)はフォトジェニック・ドローイングと、クリスチャン・シャドー(1894-1982)はシャドー・グラフと、L・モホリ=ナギ(1895-1946)はフォトグラムとそれぞれ写真機を使わない写真を命名している。
- (13)Man Ray, Self Portrait, Little, Brown Company, 1998, p.106. なお⽇本語訳については、マン・レイ『セルフポートレイト』、千葉茂夫訳、美術公論社、1993、を引⽤させて頂いた。
- (14)1837年にルイ・ジャック・タゲール(1787-1851)がヨウ化版に撮影、現像した像を⾷塩⽔によって⻑期定着させる技法を発⾒したことによって実質的に写真が発明された。写真の発明以前からカメラ・オブスクラなどにより像を得ることはできていたが、写真とはまさにその像を定着させるために発明されたのである。
- (15)Pierre Bourgeade, Bonsoir, Man Ray, Pierre Belfond, 1972, p.52. なおここで、「描く」という動詞はpeindreが使われている。
- (16)レイヨグラフとは印画紙などの感光材料の上に物体を置き、光を当てる技法であり、光が当たった部分は⿊くなり、光が遮られた部分が像となって浮かび上がる。それ故、光の当て⽅、また光を通過させる透明なガラスのように、物体の透明度が像を⼤きく左右する。
- (17)マン・レイはまた、この作品と同じような形式で、アルファベットとボタンをちりばめたレイヨグラフを1946年に制作している。この作品はフランス国⽴図書館で閲覧することができる。また、註 16 で詳しく触れるが、マン・レイは1948年に ALPHABET POUR ADULTES という作品で A から Z までそれを頭⽂字とするものをレイヨグラフで撮り、そのレイヨグラフにそれぞれの⽂字を合わせた作品を制作しようとしており、その構想は Bonsoir, Man Ray で述べられている。「例えば、« O »という⽂字のところでは、感光紙に⼆つの卵を置き、光をあてて、いくらか盛り上がった感じの、⽴体感のある卵(œuf)影像をつくった。こうしたやり⽅でアルファベット本の半分くらいまで進んだ。ところが、変更を求める出版社と議論したあげく、結局やめてしまった。」Bonsoir, Man Ray, op.cit., pp.102-103. なお⽇本語訳はピエール・ブルジャット『マン・レイとの対話』松⽥憲次郎・他訳、⽔声社、1995、を引⽤させて頂いた。確かに、この作品は出版社との⼝論の末、レイヨグラフからデッサンにその構想を変えることになるが、これらの作品によって少なくとも、マン・レイはレイヨグラフと⽂字とを関係づけようと試みたと⾔うことができるように思える。
- (18)この作品は 1970年に刊⾏された A から Z まで、⽂字とデッサンによって記された絵本である ALPHABET POUR ADULTES という作品の表紙に使われている。先にアメリカで1948年に刊⾏された ALPHABET FOR ADULTS のフランス版ということで、それ故取り上げられた単語が異なっている。また、註 15 で触れたように、この本は最初の構想段階で、マン・レイはデッサンではなく、レイヨグラフで対象を撮ろうと試みており、その点は、写真、対象、⾔語の出会いという意味において⼤変興味深いが、本稿は指摘するにとどめる。ALPHABET FOR ADULTS、 ALPHABET POUR ADULTESについて詳しくは⽯原輝雄『我が愛しのマン・レイ』、名古屋市美術館、1996、p43. を参照させて頂いた。「展覧会の開催に合わせコプリー画廊からは、『⼤⼈のためのアルファベット』と名付けた絵本が刊⾏されている。⼦供達(たぶん⼤⼈に対しても)抽象美術の考え⽅を伝える楽しい本で、アルファベットの⽂字、例えば、「A」を錨(anchor)という単語と、その概念を表すデッサンで⽰し、「B」の場合なら、割る(break)としてガラスの破⽚が⾶び散る場⾯が使われるという具合で、「A」から「Z」まで説明するのであるが、「D」の項⽬では、蜘蛛の巣が描かれている。そこに⽤いられたのは他動詞で、考案する(devise)と書かれている。絵本は当初、単語を表すレイヨグラムでの構成として考えられたが、出版社と喧嘩し中⽌されてしまったという。後にフランス語版を刊⾏した時、⽻根ペンを使ってレイヨグラムを造り、三⾊のシルクでアルファベットの三⽂字を刷り込んだオリジナル作品を挿⼊したのだが、これを⼿にして贈与条項を連想した。」
F1 マン·レイ 1922 無題
f2 マン·レイ 1924 無題
F3 マン·レイ 1970 無題
A Z U R
本記事は、成城⼤学フランス語フランス⽂化研究会の 機関誌『AZUR』第 4 号(2003 年 3 ⽉発⾏)に掲載されました。
成城⼤学フランス語フランス⽂化研究会
Société d'étude de la langue et de la culture françaises de l'Université Seijo